2012年07月18日
マイノリティー。
平等な立場で、平等に意見を述べられる場で「どっちも正論だよね。どっちの可能性もあるよね」という結末に何故ならないのか。正論と正論がぶつかり合うと、時にそれは思わぬ争いをも生み出すということは現実のあらゆる場面にはびこる。ならば、とそれを回避すべく正だと信じているものも引っ込めてしまう自分がいるし、果たしてそれは正なのか、それとも誤なのかも、と自問自答することも度々あったり、もう何が何だか分からなくなったりもします。正の意見と比較する対象は、何も誤や負だけではないのに。そして「強くて、頑な(かたくな)で、堂々とした意見」と「柔軟なような、弱いとも取れる意見」がある場合には、圧倒的に前者が有利とされる風潮があったり、「多数派」と「少数派」に分かれる場合にも、それは前者の方に傾くことが多いのでは。そしてボーダーラインを右往左往する人は、おのずと多数派に偏ることも、社会で生きていく為には致し方ない方法の一つであることは否めない。・・そんなこと分かっているはずなのに、それも選択肢の一つと認めていたはずなのに、やはり目の当たりにすると、ワタシだって落ち込む時があります。反対したり、嘆いたり、落胆しては、立ち止まったりしてしまいます。そして「何かを期待」していたり、「それが当たり前」で行動していた無意識の自分に気付いては、少し恥じたり、憂いたりします。でもそれらもひとしきり過ぎて落ち着いてくると、自分なりに物事をまた咀嚼し、飲み込み、反芻しようと試みます。どうにかしてでも自分の血となり肉となり骨とする為の本能のようなものでしょうか。そして結果、少しでも成長できた自分を夢見たり、懐が大きくなっているであろう未来のワタシを想像することで勇気が沸いてくるような気がします。・・今はまだまだ反芻の途中ですけどね。そしてワタシの目標として、多数派の意見が圧倒的有利な場合でも、勇気を振り絞って「あの、一言いいですか・・」と言える人間になりたい。ただ黙って吸い寄せられ、飲み込まれるような人にはなりたくない。主張したいのではない。意見を通したいだけではない。ただ、マイノリティーな意見や人々に目線を合わせ、考えられる柔軟な人で常にありたいと思う。幅広い目線や視点を持っている人はきっと、マジョリティーもマイノリティーも平等に比重関係なく捉えていると思う。そんな人にワタシもなりたいなぁ・・


Posted by おかっぱ at 14:14│Comments(0)
│アタマノナカ